銀座

小さい頃は銀座が遊び場だった。
お金がなくてもデパートのおもちゃ売り場に 行けばただでおもちゃで遊べた。
月島からは歩いていける。 月島の我が家を出て、勝鬨橋を渡る。昔は勝鬨橋は下の隅田川を往来する大きな船が ぶつからないように真ん中から割れて橋が上がった。都電もそんなときはストップする。
築地の魚河岸とか、築地本願寺に寄り道し、次には道路の両側に 映画館(松竹と東劇)さらに新橋演舞場が現れる。
さらに進むと、文明堂や歌舞伎座。
そうそう。歌舞伎座の道路の反対側には刃物の「菊秀」がある。 家で使っている包丁はここで買ったもの。よく切れる。最近、 また買い替えたが、その前のは20年近く使ったろうか。前のは 柄の部分に木が使われていたが、その木の部分は腐りかけている。 それでも切れるのである。
さらに行くと、てぬぐいの「大野屋」やインド人のカレーの「ナイル」が 見える。パチンコやも角にあった。大野屋も別の角にある。
そして銀座4丁目の4つ角に来る。ここからは、さてどっちに行こうかと いうことになる。銀座三越はすごく小さい(当時はだけど)。和光は つまらない。三愛は男の行く場所じゃない。 残る角はライオンビアホール。もちろん、この中には入ったことがないのだが、 ここのネオンはたまらない。いつまで見ててもあきない。(もっとも、それは 夜だけだが。昼間はネオンが点かない) いまでもそのネオンは目に焼き付いている。色つきで。 いまはそこはニッサンのショールームでライオンは地下にもぐってしまった。
そこで、右に行くか、 左に行くか、はたまた前に進むか。右なら松屋。左なら松坂屋。 どっちのデパートにもおもちゃ売り場はある。 そう、あとは前方には天章堂がある。宝石で有名だが階上には 鉄道模型がある。私の婚約指輪はここで買った。 あとはもっと前方に進めば数寄屋橋を渡り、有楽町を過ぎ、日比谷あたりに出る。 皇居で遊ぶもよし、日比谷公園で遊ぶもよし。 こうやって小学校時代の日曜日は過ごすのである。
銀座には歩いていけるが、親と一緒のときはバスや都電に乗って銀座に出かける。 場合によっては銀座から地下鉄に乗って日本橋の白木屋や高島屋、三越まで足を延ばす。

高校は白鴎高校。浅草の近くにあり、月島からは銀座とは逆方向の都電に乗って 通学していた。だから、銀座は少し遠のくことになる。しかしながら、 「目」の治療で銀座眼科に通っていたので、そんなときは、病院が終わったあとは、 有楽町のそごうの上のレストランで、ホットケーキを食べて帰ったように記憶している。 それが病院に行く唯一の楽しみのように。
高校の後輩で有名なのは、俳優の柴俊夫とか、ベルバラの漫画を書いた人 (名前を忘れた)、冒険家の女性(これも名前を忘れた)などがいる。 さらに、なんと、大学のときの同級生がいまこの高校で教鞭をとっているし、 鴎友学園という白鴎高校関連の高校の校長に今年からなったのもまた、 大学の同級生。また、高校時代の同級生にU○Y子というのがいる。 印象的なのは、キツネ目の女ということ。でかいということ。 ボス的な感じを受けたこと。色が白いということ。
もともとこの高校はむかしは府立第1高女と呼ばれていた女子の学校である。 それが男女共学になったもので、クラスは8組あったけれど、 そのうち、2クラスは全員が女子。残る6クラスが男女半々という 構成になっている。つまり女子のほうが多い。また成績も女子のほうが よくて、いろんな教科のトップは女子が独占している。 そんな中、私は数学で、トップの中にくい込んだ。どうもそれまでは 男がトップに入ることはなかったようである。そしてそのU○Y子も 成績がよくて、私のライバルであった。おしゃべりをしたことはない。
近年、「U○Y子」という名前を新聞で見つけた。なんと 総理府男女共同参画審議会委員になっていた。しかも 日本IBM取締役という肩書きもあった。してやられたね。

大学は東京教育大学。ここでふたたび銀座との深いつきあいが始まる。
通学は再び、バスあるいは都電で銀座まで出て、そこから丸ノ内線に 乗って、教育大のある茗荷谷まで行くのである。
大学に入って、お酒を覚えるのであるが、たぶん、同世代の人と飲み方が 違うのは、私はたいてい銀座でしか飲まないから、その当時流行っていた「コンパ」 というバーを利用していた。ほかにも安い「マーメイド」というバーとかを利用 していた。ここではサントリーリザーブをボトルキープしていた。 その当時も学生はビールか日本酒を飲むというのが通説だったが、私は あいにくと日本酒は1ccも飲めない。
後年、ショーチュー(焼酎)を飲み始める。それまではショーチューは 下品とされていたから、飲むことはなかった。 最初に飲んだショーチューが「下町のナポレオン」だったことが、 ショーチューに走ったきっかけかもしれない。
私が好きなのはジンである。その次がウイスキー。ウイスキーは カナディアンウイスキーがおいしい。バーボンもおいしい。もちろんスコッチも。
銀座で飲むといいところは、いくら遅くなっても家まで歩いて帰れること。もちろん 家までは歩くと30分だけど、酔っぱらってるときには、これはツライ。 だからタクシーが拾えれば、タクシーで帰る。
私の親父は数寄屋橋にある朝日新聞社に勤めていたから、 そして、週の半分は、夜勤で朝まで新聞社にいたから、 飲んだあとに、ぶらっと新聞社に寄って、親父と5階の 社員食堂で雑談をしたりした。新聞社の食堂は24時間、開いているから。 親父も私が寄ると喜んでいた。
いまはその朝日新聞社も築地に移転し、もとあった場所には、現在は 有楽町マリオンが建っている。きょうは、そのマリオンのピカデリー1で 映画「シカゴ」を見てきた。
マリオンができた年だったかに、JUNETの解散総会が、ここで行われた。 著名人の出席は少なかったですね。日本でのネットワークの 一時代を確立したものだけに、 JUNETとはずっとのつきあいだったのに。。。 一抹の寂しさがありましたね。
成島先生とも飲んだな。もっとも、その当時はまだ成島さんも大学院の 学生だったけど。成島さんがウォッカで私がジンだった。

幼稚園は救世軍。小学校は中央区立第3小学校。中学校も区立第3中学校。 高校は都立白鴎高等学校。大学は国立東京教育大学。 だから、全部、安上がりだった。

銀座の食べ物やは全部高いと普通の人は思ってるかもしれない。 しかし、実は安いところもある。中学のときは、よく「三平食堂」というのを 利用した。あるビルの3階くらいに、その店はあった。 高校時代、大学時代では、ベトナムラーメンのお店、あとは 「銀座第1食堂」というお店。ここはべらぼうに安い。 けっこう、裏の裏あたりまで行けば、普通の値段で食べられる。



月島

私の住んでいたところは、旧町名でいうと、月島東仲通である。
月島は「もんじゃ」で有名になってしまったが、私は、絶対に 「レバーフライ」。
これは絶品である。レバー嫌いな人でもこれは食べれるし、 私は小さいころからレバーフライをおいしいと食べていたから レバーが嫌いな人なんて考えられなかった。
路地にある「フライのサトウ」はいまでも健在だし、時間があれば いまでもレバーフライを買う。 小学校のころは銭湯の帰りに1本あるいは2本を買って、その場で食べたが、 いまは40本とか買いだめして多摩まで戻ってくる。あの当時 ふとっちょのお兄さんと痩せの弟さんがフライをあげていたが、 いまは弟さんしかいない。たいていはお店を開けてから2〜3時間で (品切れになって)店を閉じてしまう。だからいまでは滅多に買えない。 だいたい3時頃に行かないとダメ。
しかし、大人になって 焼き鳥のレバーとかフォアグラとか、を食べるようになって ああレバーを嫌いという人がいるのがわかるような気がした。 フォアグラは好きになれない。焼き鳥のレバーは好き。 いまではレバーフライはなかなか食べられないので代わりにこれを食べる。 もっともレバーフライのレバーは牛か豚のだけれど。
昔、(レバーが嫌いな?)大矢先生が月島に来たとき、レバーフライを 食べさせた記憶がある。

むかしのもんじゃ屋はとくにのれんとかがさがっていたわけではない。
ごく普通の家だった。知ってる人しか探せないような。しかも冬しか やってない。値段は20円くらいだったろうか。もんじゃの具はいまのような ものではない。わずかなものしか入ってなかった。
たいてい友達に誘われていくと、ガラっと引き戸の玄関を開けると そこにもんじゃの台がすえつけてあったりするわけだ。 ほんと、普通の家の玄関にすえつけてやってる感じだ。 もうちょっと大きいところだとちゃんと部屋に入って食べるようになる。 私がその当時のもんじゃ屋で覚えているのは4軒くらいだろうか。 私はおいしいと思うが、一般的に考えたらおいしいものではない。 自分の家で作ったりもした。しかし、自分の家では、あの独特なソースが 手に入らないから、やっぱりお店のには負ける。

銭湯はたくさんあった。名前は覚えていない。梅の湯だの竹の湯だの だったように思う。
西仲通りにあるし、 東仲にもあるし、電車通りにもある。ちなみに私の家は東仲通りにあるが きまって電車通りの梅の湯(?)である。もちろん、家には風呂はない。
トイレが水洗になったのは早かった。やはりそれは中央区だったせいだろう。

駄菓子屋はすぐのところに2軒。「ばあや」と「かさや」という。 名前の由来は想像でしかないが、きっと、「ばあや」は婆さんがやっていたから? 「かさや」はもと傘屋だったから?
毎日、おこづかいを5円もらい、ばあやに行く。たま〜〜に少し足を延ばして 傘やに行く。こちらはちょっと品ぞろえがばあやとは異なる。ちょっぴり大人の 雰囲気がした。
テレビも家にはないから、ばあやで見た。近所の人も大勢集まった。

おでんのスジは「ゴジラ」と呼んでいた。その当時はリヤカーのような 屋台のようなものでチリンチリンと鳴らしながらおでん屋が来た。 なんでも一串5円。コンブとか三角コンニャクだと3つ刺さっていた(?) そんな中で「すじ」は異彩を放つ。これは大きく一つで一串。 これがものすごくおいしい。おでんのだしは真っ黒である。これが当たり前だと 思っていた。つゆが透きとおって下が見えるなぞ考えられない。

救世軍が近くにあった。そしてそこに幼稚園があった。私はそこに行ってた。
だが幼稚園の記憶はあまりない。ただ一つ、印象に残っているのは一回だけお漏らしを したときのこと。替えのズボンに履き替えさせられて、濡れたズボンを持って わずか1、2分の家に帰った。

駐留軍がいた。私の小学校は月島第3小学校だが、晴海(その当時は晴海と いう名称がついていなかったと思う。単に「おんごうち」と呼んでいた。 よく、「おんごうちに行って遊んでくる」とか言ったものだが、正確には4号地 あるいは埋め立て4号地である。月島は2号地と呼ぶ。)にあった。
月島からは朝潮橋を渡って4号地に行くのだが、橋の上からは富士山が見えた。
第3小学校は晴海にあるのだが、そこはアメリカの駐留軍に占領されて いたので、しかたなく第1小学校に間借りしていた。肩身の狭い思いを するのだ。たしか、休み時間とか、第1小学校と同じだから休み時間に なるといっせいに、校庭に降りてくるのだ。けんかになってはいけないので いちおう目に見えない線があって、(というか、そこには溝があったような 気がする。そのなんだか知らない溝で分けていたと思う) 第1小と第3小の子はその線を越えないようにしていた。

ジープに乗ったMPも見た。あとは「ヘイ、チューインガム」や 「ヘイ、チョコレート」である。米軍とのつきあいはこのくらいである。おっと、 クリスマスには駐留軍が招待してくれる。そのときは晴海の駐留地に 行き、講堂のような場所で 演劇とか歌とか披露してくれる。そんなものの印象はないのだが、 目当てはサンタクロースの格好をしたアメリカ人から豪華なプレゼントの おもちゃをもらうこと。

やがて、第3小学校が還ってくるときがくる。たしか小学校3年生の ときだと思う。第1小学校に全員が集まり、そこから整然と第3小学校まで 歩いていった。その次の日からはずっと第3小学校に行くことになる。 駐留軍が使っていたので、建物はそこいらじゅうに、めったやたらに英語が 書かれていた。そのときに覚えたのは NO SMOKINGとNO PARKING
スチームもあった。あったが、しかし使えなかった。米軍は使っていたと思うのだが。 冬はコークスの ストーブだった。冬に雪が降ると、そのコークスの山に白い雪がのっかる。 それは印象に残っている。 小学校時代のとき、始めて南極観測船「宗谷」が晴海から出港するので 学校で旗を持って見送りに行った。また、国際見本市会場が晴海に 建設されたので、そこも見に行った。モーターショーや コンピュータショーをやった。あ、これは中学校の時代だった。
ここで始めてコンピュータと対面するのである。



浅草

浅草についてはあまり書くことがない。
近年、やっと念願がかなって、神谷バーに行った。
もちろん目当ては「電気ブラン」である。飲んだ。
ウ〜〜ン。 すごい。やっぱりブランデーである。甘い。おみやげにここで 電気ブランのグラスを2個買う。
この浅草探訪はゼミ生の発案である。どうやら私が以前から「神谷バー、 神谷バー」と言ってたらしい。
そこで、ゴールデンウィークのある1日に学生が企画してくれた。
浜松町に集合し、水上バスで浅草まで行くというコースである。

大学の学生だったころ、ほかの学生と同じようにアルバイトで 家庭教師をした。
当時、週2日で6000円。週3回で10000円 あたりが相場だろうか。もっとも週3回、10000円というのは滅多になかった。 私は週2回。
私が家庭教師をしていたのが浅草の家だった。 もちろん、せっかく浅草に行くのだから、その近辺はぶらぶらするわけ なのだが。よく仲見世あたりをぶらぶらしていた。「よにげや」という 名前のお店があって、ここでは面白い、一風変わった物を売っていた。
大学が茗荷谷にあるから、大学が終わって浅草に行くのに 営団地下鉄丸ノ内線で淡路町まで行き、そこから銀座線に乗り換える。
むこうに着く前に腹ごしらえをするので、食べるのはここだったり あるいは浅草だったりする。そして淡路町では中華やとかそば屋に 入った。「まつや」という一見、なんてことのない地味なおそば屋がある。 ここもよく利用した。ところが最近、この「まつや」が なにかの拍子に、けっこう注目のまとになり、いまや 行列ができるお店になった。
あとは、浅草で食べるとすると、そのころ「札幌ラーメン」が 流行りつつあり、けっこう食べた。その中でもピカイチなのが 浅草松屋の地下1階(いまならデパチカか?)の 端の端のほうにある、あんまりめだたないところにあった 札幌ラーメンのお店。ここのは絶品であった。


最後に

私は中学3年生まで、東京都は全部平地で坂道なんて存在しないと思っていた。
そして、碁盤の目のように道路が走っていると。
自分のテリトリィーがそうだったから。
中学3年になって始めて、ああ、向こうのほう(地図でいう皇居よりもっと上) には坂があるんだと知った。